「足摺岬」行ってわかった!ジョン・万次郎の功績!

(足摺岬展望台から、足摺岬灯台~太平洋を撮影。海食断崖は80mとのこと。いい天気でした!)

3月に高知県を旅行してきました。
そして、四国最南端の「足摺岬」に初めて行ってきました。
「足摺岬」の灯台に行く入口に、こんな銅像が立ってました。

これは、「ジョン・万次郎」こと「中浜万次郎」(1827-1898)の像です。

しまの介は「ジョン・万次郎」については、名前と漂流してアメリカに渡った人くらいの知識しかありません。

銅像の台座の碑文(写真の台座右側)を読みますと、
①万次郎は足摺岬の近くの「中ノ浜」の出身。
②貧しい漁夫の次男として生まれた。
③14歳の出漁中に嵐で遭難し、南方の鳥島(無人島)に漂着した。
④漂着して半年後に、アメリカの捕鯨船に救助された。
⑤捕鯨船の船長の計らいで、アメリカで3年間正規の学校教育を受けた。
⑥国外生活は10年に及び、ジョンマンと呼ばれた。
⑦その間、英語、航海術、測量術、捕鯨術などを習得した。
⑧二度にわたって七つの海を航海した。
⑨24歳で未だ鎖国をしていた日本に帰国(1849年)。
⑩帰国に際して、書籍、写真機、ミシン等を持ち帰った。
⑪黒船来航(1851年)などもあり、罪に問われず、苗字帯刀を許され、幕府直参(直属)の武士に取り立てられた。
(別の看板によれば、「その国際知識をかわれて」幕府直参になったとの記載。こちらの記載の方が納得ですね)
幕府では、外国事情の講話、アメリカ航海術書や公文書の翻訳、英語教授、洋式船の操術、捕鯨の実施指導を行う
日本人による初の太平洋横断を行った「咸臨丸」の成功の影には、万次郎のすぐれた航海術が貢献した。
明治2年には開成学校(東京大学の前身)の教授に任じられた。
と書かれています。
しまの介が注目したのは、⑫~⑭の記述ですね。

幕末から明治維新そして開国という日本の近代化の黎明期にあって、万次郎が少なからず尽力していたことを初めて知って、驚きました。

名前は知ってはいましたが、これだけ日本の近代化の黎明期に貢献した人だったとは…
万次郎なくして、「咸臨丸」の成功はなかった!かもしれない。
万次郎なくして、「福沢諭吉」はアメリカに渡ってなかった!かもしれない。

折しも、「足摺岬」の灯台へ行く入口にある観光案内所では、
「ジョン・万次郎」をNHKの大河ドラマに!
と、署名活動をやられてました。

これだけの功績のあった人であり、また漂着~アメリカ渡航~日本の開国に貢献という数奇な人生をたどった人ですから、是非、大河ドラマに取り上げて欲しいと思いましたね。

そういえば、NHK大河ドラマ「真田丸」(2016年)が放映される数年前に、別所温泉(上田市)に泊まりました。
泊まった旅館では、真田幸村を大河ドラマにと、署名活動してましたね。
(しまの介も署名しましたよ!)

足摺岬」をあとにして、せっかくなので万次郎出身の地である「中ノ浜」に立ち寄り、復元されている生家も見てきました。

実際に生家があった場所は、この復元建物よりも50mほど離れた場所のようです。

《補足説明》
①万次郎が漂着した鳥島(とりしま)は、現在の東京都にあるとのことなので、かなり漂流したんですね。
➁万次郎を救ったアメリカの捕鯨船の船長の名は、ホイットフィールド。
万次郎は、彼の故郷であるマサチューセッツ州フェアヘイブンで教育を受けた。
(ちなみに、万次郎の生まれた「中ノ浜」がある土佐清水市は、フェアヘイブンと1987年に姉妹都市を締結している)
1860年の「咸臨丸」による遣米使節派遣時には、通訳として随行した。(これって凄い貢献!足摺岬の銅像の碑文には、通訳随行の記載はなかったですね)。

上記の《補足説明》については、下記の本を参照しました。